殴り書き3
私は文章を書くのが苦手だ。
何を書けば良いのか、これで本当にいいのかといちいち思案してしまい、中々書き進められないのだ。自分が書いたものに納得できず、だいぶ書き溜めてから全部白紙に戻したことも何度かある。
このはてなのサイトで1週間に1回何か文章を書こうと思っていた時期もある。しかし、そう思った日から文章を書き進められず。一瞬でその目標は闇に葬られていった。
まあ、このブログを書く程度には文章を書くのが苦手な危機感というものがある。文章を書くのが苦手ということは、書類を書くのが苦手ということ。それは社会生活でかなり重いハンデとなるからだ。また、兄弟が文章を書くのが上手いのが更に私をあせらせる。
一体どうしたら文章を書くのが得意になるのやら。
殴り書き2
これは病みツイートの長い版みたいなものなので、相手にしない事をお勧めする。ただの記録としての投稿だ。
私になぜ感情があるのか。邪魔すぎる。
感情が無ければ、みんなが私をこき使える。感情が無ければ、他人の言動に一喜一憂しなくて済む。感情が無ければ、無駄に心をすり減らす事も鬱になる事もない。「なんとなくだるいから」みたいな取ってつけた言い訳で時間を無駄にする事も、恥を恥ずかしがる事もない。感情が無ければなぁ。社会の為にも自分のためにもなるなど素晴らしい。
私は世界に1人の要らない人だ。「要らない人」なのは、期待に応えられなかったから。期待に応えられなければ私に価値はない。こんな何もできないやつ、期待に応える以外に価値は無いのに、期待にも応えられないとか邪魔な存在でしかない。
何もできないのに安全なご飯を食べて、安全な家で過ごして、自分の着たい服を着て、教育の機会を与えられて。要らない人なのにこんな状況なんて知れたら、罵詈雑言が飛んできそうだ。
他人にとって「要る人」になるには、利他的を追求していけばいい。努力して、力をつけて、それを他人のために役立てればいい。自分なんかどうでもいい。むしろ壊れればいい。壊れれば、何にも感じなくなれば、私は他人の為に動く事を躊躇うことがなくなる。プライドも恥も何もかも捨てて他人の為に動ける。
感情、邪魔だなぁ。
技術の先生怖すぎた
中学生の時、技術の先生に怒られた。理由は質問をしたから。「自分で考えてやる」のに重きをおくタイプの人だったのだ。確かに教科書で調べないまま軽いノリで聞いたのは悪かったが、そんな教育方針初耳だった( ; ; )。先生は怒るとまじで怖い人だった。普段はっちゃける人も、その人に怒られるとその授業はずっと元気がなくなる。当時の私の日記のようなものによると、「不良品のロボットを見るような目で見られた」らしい。うるむ目に気づかないふりをしてその授業は耐えた。
それより涙が出そうになったのは、その後の授業だ。その授業は作業が主で、先生が自由に移動していく。そんな中、その先生は私に目線を合わせて笑って話してきたのだ。意味分からないほど泣きそうになった。そろそろ涙が溢れるんじゃないかと内心慌てながら話した。恐ろしい体験の後に優しくされたのだ。こんな体験をしたら、きっと画面の前の君も泣きそうになるよ。
スッキリした
反抗期、私は滅茶苦茶感情を抑え込んでいた。心の弱い家族がいたから、この家族への反抗心と反抗的な言葉を我慢するしかないと思っていたのだ。
父に「ここ、こうしたら良いんじゃない?」と言われたら、「あー、そうかも」と言いながら「は?頼んでないのにアドバイスすんなよ。単純にきもい。消えろ」と考えるような生活だった。それくらい、表面上と内面の私はかなり対極な存在だったのだ。
しかし、自分が二分されてるとすごく疲れる。精神的にもかなりくる。スマホに溢れ出る感情を書き留めて整理したりしていたのだが、それでもまだ足りなかった。爆発しそうなので予め家族に反抗期だと伝えても信じてもらえず。「こっちは苦労して反抗心を抑えてんだよ」と更にストレスが募り、夜な夜な泣きながら心の中で叫ぶ生活。ある時、そんな中にテスト勉強のストレスが入ってきた。
そして、限界が来た。
私は、家族に対して取り繕うのをやめた。「バカ」だったか、「あほ」だったか、「クソ野郎」だったか。もう何を言ったか覚えてないけれど、私は反抗期になって初めて家族に暴言を吐いた。でも、叫んだわけじゃなかった。限界すぎて頭は冷静だった。いつもの、日常会話と同じノリでぽそっと呟いた。
案外、私の暴言は受け入れて貰えた。心の弱い家族も大丈夫な様子だった。肩の荷が降りたような気がして、それからは反抗心を少し表に出すことができた。0%が10%になっただけだったが、私はめっちゃスッキリした。溜め込んでいた感情を出せることほどストレス発散になるものは無いんじゃないだろうか。
取り繕うのをやめて良かった。反抗心でも何でも、感情を我慢するのはかなりつらい。今、反抗期などで感情を抑えている人はどこかで叫ぶやらなんやらすると良いと思う。カラオケで1人で熱唱したり、自分の選んだ所に自分だけで行ってみるのもオススメだ。とにかく、我慢だけはやめてほしい。
それでは、また。
殴り書き
最近、某国と某国が戦争をしている。私は、とても泣きたい。全力で泣きたい。
無知な私は、この戦争に意味があるとは思えない。コミュニケーション不足と頑固な意思が原因の、土地を争うだけのものにしか見えない。そんなことで、何万人も殺してるんだと思わずにはいられない。
なぜ殺すんだろう。なぜ話し合いをしないんだろう。少しずつ意見を譲れば、どちらも同じくらい我慢するようにすれば、戦争なんてやらなくて済むじゃないか。
戦争なんかで人の未来を奪ってはダメだ。戦争なんか、ただの話し合いの時短に過ぎない。そう思えてならない。
我が国は、過去に戦争で何万人も殺してきた。億単位かもしれない。それが自国の民であろうと敵国の幹部であろうと、殺したに変わりはない。真珠湾攻撃をした。植民地で過酷な労働をさせた。原爆をおとされた。神風特攻隊で命を落とさせた。……。
二の舞なんかさせてたまるか。我が国のようになってはいけない。もう、戦争なんてしないでくれ。話題に出していない、まだ継続中の戦争も、止めてくれよ。
子が父親を亡くして泣いているんだ。尽きていく力と食糧に絶望するんだ。送られる物資に有り難みを感じながらも戦争が続くことを知るんだ。そんなの、ただのディストピアじゃないか。
戦争による差別もごめんだ。どの国出身だから良い人でも、悪い人でもないんだ。国の傾向としてあるかもしれないけれど、それはその国全ての人に当てはまるわけがない。価値観も、考え方も、感じ方も、みんなが違うのに、偏見で差別されるなんて、ただの人権侵害じゃないのか。
戦争よ、なくなってくれ。夢物語だと分かっているけど、みんなが幸せな世界になってくれ。
戦争の要因となくし方の意見
戦争はくだらないと多くの人が感じていると思う。そんな中、私の意見を書いてみる。
戦争は実にくだらない。しかし、戦争がなかった時代は無いと言っていいほど地球では争いが絶えない。ケンカが毎日どこかで起きているように、戦争も毎日起きている。
その主な要因は意見のぶつかり合いと欲、不満ではないだろうか。土地、権力、お金、意見。お互い譲れない物や欲しい物が重なっていたり、違う意見を受け入れることができなかったりするのだ。
こんな時思い浮かぶのは、保育園で幼児達がおもちゃを取り合う姿。泣きながら物を取り合う様は、意見のぶつかりと欲に溢れている。周りを巻き込んだ騒いだりするし、漁夫の利をする子や、中には自分におもちゃが回ってくるタイミングを予測してどちらかの味方をする子もいるだろう。まあ、子どもなので全然可愛い。取り合っている2人をよしよししながら宥めたい。
しかし、これが国単位で行われてるとなるとゾッとする。なぜ土地や権力、物の取り合い、意見のぶつかり合いが殺し合いや苦しめ合いにならなくてはいけないのか。コミュニケーションでどうにかならなかったのかと問いたい。どちらも満足することはできなくとも、話し合いで最悪では無くお互い我慢できる程度の選択をすることはできるはずだ。
また、幼児のオモチャの取り合いと同じように、戦争でも、どちらも悪い時と片方が悪いときがあるだろう。あるいはその奥にいる第三者が。
片方が悪い時は、悪い方にその戦争の大方の責任を取らせれば良いのではないかと私は思う。また、悪くない方も戦争に加担してしまったのは事実なので、少しの責任は果たすべきだと思う。殴り合いのケンカは、自分たちの意思でお互いに暴力を奮ってしまっているのだ。第三者が悪い時は、第三者が全責任を負うべきではないだろうか。人形劇の人形は悪くない。
さて、なんだか色々語ったが、本題はどうすれば戦争を無くせるかだ。こんなこと、すぐに止まなくてはいけない。
まず、戦争をしないと生きられない人がいることをご存知だろうか。私は兵器を売る人しか思いつかないが、もっとたくさんいるだろう。彼らは戦争に生活を賭けている。兵器を売る事でお金を稼ぎ、家族を養ったりしている。また、戦争があると利益がある人がいれば、戦争はまた始まる。なので、まず彼らに他の仕事を斡旋しよう。その利益を、どうにかして無くすために。
次は、戦争を起こさない政権を国の主とすることだ。これはデリケートな問題なので、あまり書きたくないが、一つだけ言わせてもらう。私は民主主義のほうがそういう政権を選びやすそうだと思っている。
最後に、みんなが平等で不満を覚えにくい世界を作ることが重要だ。差別、格差は以ての外。不満は戦争につながる。
粗方私の意見は述べた。しかし、これは実現可能なんだろうか。1人が地球全土を支配し反対意見は押し潰す独裁政権のほうが、戦争が起きにくく現実的な気もしてくるのだ。自由と戦争があり現実的ではない方か、自由も戦争もなく現実的な方か。それとも、他に方法があるのだろうか。いつかこの問題が解決できることを切に願う。
私にとっての「かっこいい」
最近、「かっこいい」と思う瞬間について考えるようにと言われたので、それについて書いていこうと思う。
私がかっこいいと思う瞬間
•なんらかの技をする職人を見た時
•人助けをする人を見た時
•良い感じのロックを聴いた時
これくらいか。
次は、なぜ私がかっこいいと思うのか分析していこう。
なんらかの技をする職人を見た時
技というのは、なんだか不思議で素晴らしい。例えばものづくり職人の技。見たことあるだろうか、彼らは神経を注ぎながら材料を削ったり、溶接したりするのだ。ミリ単位で正確なものを手作業で作ったり、1つ崩れただけでお仕舞いになってしまうようなことを成したりする。努力しなければ到底辿り着けないその技を成していく姿がとてもかっこいい。
人助けをする人を見た時
これは多くの人が「かっこいい」と思うのではないだろうか。社会から見ても好印象な傾向があるようだ。例えば、慈善活動者やボランティアの多くが好意的に報道されている。それに、子供の頃にヒーローもののアニメを見た人はヒーローに対して「かっこいい」と思ったのではないだろうか。みんなを助けるヒーローである彼ら、彼女らは、多くの子供達の憧れだ。
つまり、私から見て人助けをする人はそのヒーロー達となんら変わらないのだろう。きっと、だからかっこいいと感じるのだ。ヒーローが人助けをする人に置き換わっただけで、まだまだ私は子どもらしい。
良い感じのロックを聴いた時
これは単なる私の好みだ。どこら辺が良いのかを形容するほどの語彙力が私にはないので説明も分析もあまりできないのだが、かっこいい。ギターのあの掠れた感じや、ドラムが強く刻むリズムがかっこいい。歌詞の雰囲気も好きだ。
さて、ある程度書けたので私は満足した。まとめることも特にないが、敢えてまとめてみるならば、「かっこいい」は私にとっての憧れや気分の高揚を表していそうだ。